『解放新聞広島県版』 2006年8月16日 ―第1832号
◆レポート◆ 日韓被爆二世シンポジウムINソウル
−日韓被爆二世交流会に参加して− 中杉義宏さん
6月23日から24日の日程で日韓被爆二世交流会「日韓被爆二世シンポジウムINソウル」が開催され、参加する機会をいただいた。主催は日韓被爆二世交流会実行委員会で原水爆禁止国民会議、全国被爆二世団体連絡協議会、韓国被爆二世の会の3者で構成。
今回の目的は
1.日韓被爆二世の連帯を深め、共通の課題のもとに世界平和に貢献できる日韓被爆二世の構築をめざす
2.原水禁運動など日本の反核平和運動の現状を韓国被爆者、被爆二世に知らせる
3.在韓被爆者の話を聞き、在韓被爆者問題についての認識を深める
というものであった。
韓国原爆被害者協会を訪問
23日には、日本の全国各地(北海道、東京、神奈川、大阪、広島、長崎など)
から参加した30名あまりが、韓国原爆被害者協会の事務所を訪問し歓迎を受けた。
今の事務所は2ヶ所目で、「最初の事務所は裸電球のともる小さな事務所からの出発だった。今では2千数百名の会員を持ち、各地域に支部がある」と会長から説明を受けた。
植民地支配の爪跡
24日は、午前中自由行動ということであったが、希望者12名が西大門刑務所歴史館を訪れた。 この刑務所は日本が占領時代に建てたもので、当時の日本が朝鮮民族の人たちに行ってきた植民地支配と、それに抵抗したために拷問を受けたすさまじさを示す日本の「負の遺産」が展示されていた |
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歴史館ではボランティアの方が日本語で解りやすく解説し、百数十年前から日本の行ってきた蛮行を詳しく説明された。 |
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そのボランティアの方は最後に「このようなことは2度と起こしてはならない。これからの関係が大切だと思う」と話された。 |
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在外被爆者問題に力を
午後からの被爆二世交流会は、日韓両国の被爆者、被爆二世三世、合わせて80数名が参加者する中でおこなわれた。交流会に先立ち全員で被爆と戦争で犠牲となった多くの人びとに対し黙祷を行った。
最初に原水爆禁止国民会議事務局長の福山真劫さんがあいさつに立ち、「原子爆弾により多くの犠牲者が世界各地におられる。日本国内でも不十分な補償でしかなく、日本政府に謝罪と補償を要求していかなければならない。中でも二世三世の人たちは置き去りにされてきた。日本国内においても二世三世の実数はわからないが、健康不安や差別にさらされてきた実態がある。また、在外被爆者に対しても同じ補償を闘い取らなくてはならない。これまで被爆者援護法の改正を求めてきたが、今後はそれらの課題を含め、力を入れて取り組んでいく」との決意があった。
その後、韓国被爆二世の会釜山支部長・李太宰さんが「韓国の被爆二世の活動報告」と題して、スライドを上映しながら、日韓の高校生たちの交流や署名活動、シンポジウム、また、裁判闘争などを紹介した。
日本の責任で
続いて全国被爆二世団体連絡協議会前会長の平野伸人さんが「日本における在韓被爆者支援活動の到達点」と題して講演を行った。
●平野さんは1949年12月生まれの被爆二世で次のように述べた。
1985年、被爆40年の年、被爆者が高齢化してきた中、日本には多くの被爆二世の団体が生まれた。そして、87年から交流を始めた。その時、「核兵器廃絶の闘いもしていかないといけない」と発言したら、韓国側の参加者の中から「日本の被爆者・被爆二世と韓国の被爆者・被爆二世はつくられた過程が違う」と言われた。
日本では既に被爆者には補償がおこなわれていた。現在でも1400〜500億円が支出されているが、そのときには韓国の被爆者は何にも補償はなかった。そこから交流が始まった。日本の反省が大切であり、日本の責任で補償していかなくてはならないと思った。
しかしその闘いは、砂漠に一滴の水を落とすような闘いだった。
1990年盧泰愚大統領が訪日した際、シベリア抑留者の問題、在日の問題そして在韓被爆者の問題が取り上げられた。
日本の被爆者は在韓被爆者問題が話題となったことは歓迎したものの、「あなたたち(在韓被爆者
)も頑張れ」といった感じで同じ被爆者の仲間という認識は薄かった。だが20年かかって変わってきた。
政府も支援を始めたが、一度きりの支援であり、日本国内支援とはかけ離れたものであったため、最後の手段として、裁判闘争を始めた。今までに20数件の裁判を行っており、判決が出たものは全て勝訴に導いた。
しかし、まだまだ未解決の問題が山積している。ブラジル・アメリカ・朝鮮人被爆者の問題などがそれである。また、被爆者問題の解決と共に二世三世の問題を解決しなければならない。放射能に対する偏見や差別が横行している。放射線影響研究所に対して科学的影響があるのか明らかにし、また、日本や韓国に対し要求している。
いままでは、被爆者(親)のために闘ってきたという感じだったが、これからは一世二世が手を取り合って闘っていかなくてはならない。
是非皆さんと共に協力し合って頑張っていきたい。
●続いて、在韓被爆者の卞蓮玉さんが「被爆体験」を次のように証言した。
私は、日本で生まれ広島の草津に住んでいて、小学校4年生のとき被爆した。当時の学校では防空訓練ばかり行っていた。原爆が落ちた後、山奥に入って暮らし、終戦を知らなかった。
その後、日本が負けたことを知り、そのときは悔しい思いがした。それから親の仲間が集まっては話をしていた。壊れかけた家が雨で壊れていった。怪我をしている人がいても薬もなく、多くの死者は小学校の防空壕で焼いたりしていた。
最近小学校当時の同窓会があって広島に行き、原爆資料館に行った。それを見たとき涙が止まらなかった。
63年ごろ帰国し10年して原爆後遺症が出た。73年ごろに広島原爆病院で受診し、その後、長崎原爆病院へ入院し、長崎で原爆手帳を受けることができた。一旦帰国したが、再度、日本に来るために治療ビザを申請したが、当時の外務省は一人だけならすぐに出すけれど、これから先何人の被爆者が申請するかわからないのでという理由で、3ヶ月も待たされた。
また、家族もこんな病気ばかりするものと結婚したのかと、私に辛く当たった。はじめは夫もかばってくれていたが一時理解してくれない時期もあった。
被爆の苦しみは言いつくすことはできない。
最後に参加者の代表が感想や決意を述べ、交流会を終えた。 (なかすぎよしひろ)