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−校長自死をめぐる「県教委」報告を検証する− 部落解放同盟広島県連合会 1999年6月15日 |
1999年2月28日、世羅高等学校、石川敏宏校長が自死の道を選ばれた。教育反動化の波に抗しきれず、自らの命を絶たれたことに、謹んで哀悼のまことを捧げます。
1.はじめに
一人の校長の命を絶つ程の強権的なことをした広島県教育委員会(以下県教委とする)は、この情報が入ると狼狽は極に達した。とりあえず、事実だけは県民に報告しなければならないとし、記者会見(当日午後)を行った。そのとき、高教組世羅高等学校分会も突出した校長への対応はなかった旨と「運動団体とも個別に対応したとは聞いていない」 「あれば二十四時間体制で取り組んでいたので分かる」と記者の質問に答えている。このような事件直後の見解は、初動の時期における発言だけに重みがあることは言うまでもない。時間が経過したのちの会見は、入れ知恵をするものがいたり、都合が悪くなると言い換えをすることなどがおき、真相がねじまげられていくことも多々ある。県教委は、その日の夕刻、高等学校長会尾三地区支部のメンバ−を集め、石川校長の死による動揺に歯止めをかけ、「君が代」実施に難色を示していたもう一人の校長に良心を放棄させる手を打った。
そして、通夜、葬儀とつづいたが、これらの深い哀しみに関係者が沈み込んでいるとき、着々とひらき直りの雰囲気と態勢をととのえ「法令に基づいてやっていることだから」と「職務命令」の行き過ぎや「サポ−ト」と名づける行政的圧力を行使したことについては一顧だにしないという態度をとり続けている。
その典型的なものが4月30日の記者会見で発表した「広島県立高等学校長の自殺について」なる文書である。県教委は2月28日の記者会見の時に表明した内容について、手のひらを返すように、校長の自殺事件の背景には、教職員組合、部落解放同盟の反対運動があると発表した。
部落解放同盟広島県連合会(以下県連とする)は「君が代」斉唱の強制について強い憤りを持っており、なんとかこれを考え直してもらいたいと考えていた。だがどこまでも組織的な要請活動にとどめ、身分差別の固定化について、高等学校長から県教委に問いただして貰うという運動を行った。世羅高等学校長に対して、県連側からの現地における接触はなかった。「背景」との言葉に制約があるとはいうものの、県教委は、教組、県連に一度も一言もこれについて問い合わせや事情聴取をせず、責任転嫁の文書を発表するというアンフェアな態度に出た。
ときあたかも、広島県においては自由主義史観を信奉するものの蠢動が激しくなり、とくに「満州国建国は過ちではなかった」とか「従軍慰安婦は当たり前のこと」とか甚だしきは、「天孫降臨」の行事をやってのけるなどの皇国史観の復活をめざすものが台頭している時期である。これらの応援を受け、「君が代」強制をやり遂げ、辰野派遣教育長を文部省に凱旋将軍のように帰還させようとの気分も醸成され、県教委の強引な手法がもたらした校長自殺の責任を「君が代」で民主主義や人権尊重が侵されることを危惧しているものに転嫁しようとした。
相当に周到な策をねったつもりの「広島県立高等学校長の自殺について」なる文書は、責任を転嫁しようとする団体へは全くの没交渉で作りあげられ、他方、自由主義史観、皇国主義史観の政治勢力とは共同歩調をとる内容となっている。
「君が代」を押しつけようとして県議会で、部落解放同盟攻撃をしている県会議員、しかも現在の文教委員長は、すでに平和憲法が排除している「教育勅語」を信奉し、事務所には額縁に入れたものが飾り付けてあるという。これらの反動県議の動きと相まって、県教委の姿勢は許しがたいところまできている。
ここに、石川校長の自殺に至る前後の関係を明らかにするとともに、これまでの平和教育、人権教育を切り崩そうとする県教委、とりわけ文部省当局、辰野教育長に強く反省を求め、広範な県民の皆さんに真相を公表する次第である。
2.意図的に隠蔽された自殺前後の事実関係
@突然の職務命令と岸本らの暴走で苦悩する校長
権力をもって内面の自由を奪う「日の丸・君が代」の強制は、様々なアイデンティティをもつ子どもが集う教育の場には最もふさわしくない非教育的なことがらである。1年前までは県教委も、この当たり前のことを重視して慎重に対処してきた。ところが、辰野教育長は従来の基本方針を全面的に悪として一方的に排除し、昨年の12月17日、県立学校長と市町村教育長に対して「学校における国旗及ぴ国歌の取扱いにっいて」という通知を出して「日の丸・君が代」の強制を命令した。
この県教委の豹変ぶりに対して、教育関係者の間では「いったい広島県の教育をどう考えているのか」という疑問と批判の声があがった。文部省「是正指導」以後も、県教委(内田教育部長・榎田指導課長・信楽同和教育課長・森義務教育課長・松木高校教育課長)は「文部省や県議会などからは、卒業式における国旗・国歌の実施状況こそ広島県の教育が正常化したかどうかの判断材料であると厳しく言われているが、これまでの経緯を大事にすべきであり、菅川教育長見解と木曽教育長の議会答弁(資料1)にそって進めたい」と言い続けてきたからである。
ところが、昨年12月の県議会で突然「1月から実施に向けて集中的に権導する」ことを表明し、今年に入ってから強制への本格的な働きを開始、1月11日には臨時県立学校長会を開催して「参加者の目に自然にとまるように国旗を掲揚し、国歌斉唱を式次第に位置付けて実施すること」と命令した。これに対して、石川校長は「県教委から通達が来ているが、関係者と話し合いながら混乱がないように進めたい」と教職員に話している。
また「校長会の中では苦悩の出しようがない。難しいなどと言えば、何を言ようるんかという雰囲気になる」(広教協報告書)と、苦悩の心中も語っている。
さらに私たちは、尾三地区の校長会に出席した複数の校長から「副支部長だから司会はしていたが、実施すべきだいう趣旨で積極的に発言したことは一度もなかった」という証言も得ている。報告書にある「石川校長は、国歌斉唱が行えるように取り組もうと仲閘の校長を激励していた」という記述は、県教委や東風上校長らが仕立てあげた虚像である。
この頃、私たちのもとへ、小中学校を含む多くの校長から「唐突な命令に困惑している。身分差別につながる恐れがあるとした見解を県教委は変えたのか。これでは生徒たちに指導しようがない」という声が寄せられていた。そこで、1月13日、年始の挨拶に来た辰野教育長に対して、小森龍邦県連顧問は「君が代の歌調と同和教育の推進について整理した県教委の考え方を提示しないと学校現場が大混乱する。文案ができたら相談にのってもよい」と話した。そして、その後の県教委の逃げ腰の態度に対して回答を督励し5回にわたる協議の場をもったが、県教委の示した見解(資料2)は、石川校長ら教職員や被差別当事者の苦悩に何ひとつ答えるようなものではなかった。
一方、県教委との連携プレイで「日の丸・君が代」の強行実施を狙っていた岸元県立学校長会長らも、全体の組織的議論をしないまま暴走した。高教組に対して、91年に交わ した協定書 (資料3) を破棄すると一方的に通告してきたのである。石川校長も語っていた「君が代の強制は同和教育の精神と矛盾する。実施は難しいだろう」と考えていた多くの校長の意見は、岸元校長らー部の幹部によって完全に無視された。こうして、着々と「日の丸・君が代」強制への外堀が埋められていったため、校長の苦悩はいっそう深刻なものとなったのである。
A法律違反の「校長会」招集と要望書の提出
県教委は、1月15日から教育事務所単位の「管内小中学校長会議」なるものを招集して、県立学校長に対する「日の丸・君が代」実施の命令と同様の圧力をかけ始めた。この会議では、出席した校長から「君が代は同和教育との整合性がなく実施は難しい」 「君が代の歌詞は身分差別にっながる恐れがあると県教委自らが言ってきた従来の見解を変えるのか」など、県教委の命令に対する異議が(資料4)次々と出された。これに対して、県教委の榎田指導課長(会場によっては二見課長補佐)は「差別につながる恐れがあるとすれば同和教育をさらに充実することで対応する」 (1月18日、福山教育事務所管内小・中学校長会議)と殺しておいて生かせばよいという支離滅裂な答弁をして、参加者の怒りと失笑をかったのである。
また、県教委は「県P連や高P連にも協力をお願いしている。各校のPTAに協力依頼の文書が行っ,ているはずだ」と述べており、県P連や高P連の一部役員による「学習指導要領にそった卒業式の実施を求める」という校長への圧力は、県教委の方から仕掛けたものであることを自ら暴露することとなった。さらに、参加者から「市町村教育委員会を越えて今日の会議がもたれた根拠はあるのか」と質問された通り、県教委が市町村立学校の校長会を招集できる権限はない。(地方教育行政の組織及ぴ運営に関する法律第48条4)教職員が法令違反を繰り返し、偏向教育をしてきたかのように喧伝する県教委は、自ら犯した「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」違反をどう弁明するのか。
このような県教委の動きに対して、差別助長のおそれを強く懸念した私たちは1月22日に開催した県連執行委員会において「強制反対の運動を展開する」ことを決定した。数百年もの長きにわたって差別され、時には生命まで奪われてきた者としては、「差別につながる恐れがある(県教委説明)」ことはどんなに些細なことであっても容認することはできないからである。
また、法律違反の「校長会」を招集され差別につながる恐れがあっても「日の丸・君が代」を実施せよと命令された小中学校の校長は、極めて困難な立場に追い込まれた。これまで指導してきたことを全否定して差別の助長に加担するのか否かを、自らに問われることになるからである。そこで、各地区の校長会からは「君が代の実施は同和教育との整合性を欠くとしか考えられない。差別の強化につながらないという裏付けがなければ実施は難しい。県教委の見解を示してもらいたい」という要望書(資料5)が次々と県教委へ送られることとなったのである。これらの要望書に対しては、その論点に対する何等の回答をしないばかりか「象徴天皇」というだけの2月20日の文章をもって「最終見解」とし、早々と問答無用の態度をとった。「学習指導要領」にいう「指導するものとする」との指導の責任を放棄し、ただ命令という権力的姿勢にのみ終始したのである。
B尾三地区校長会との話し合いと石川校長
県立学校の校長の悩みも同様であった。石川校長は、1月27日の職員会議で「ll日の校長会で県教委から具体的な指示があった」ことを報告したが、議論の俎上に乗せることはせず「混乱がないよう関係者との話し合いを進めていく」 (広教協報告書)ことだけを話した。さらに、2月5日には部落解放研究部の4人の生徒に対して「君が代に関して職務命令が出ている以上、これに従う立場にあります。従わないと処分もあります。しかし、君が代の『君』は天皇を指すものだと思います。歌調の意味からして、君が代を実施していいのかどうか苦慮しています。混乱がないように進めていきます」(解放研部員4人の証言)と話すとともに、生徒の思いを「地区の校長会で話します」と約束している。
私たちと石川校長を含む尾三地区の校長会との話し合いは、2月13日に三原市隣保館で行われた。話し合いに入る前の打ち合わせで、東風上支部長(三原東高校長)は「どうすればええんかのう」と政平県連書記次長に話しかけた。そして、政平書記次長が「福山の(要望書の)こと知っとってなあ。あれでどうじゃろうか」と問いかけたところ、すぐに「知っとる、知っとる。あれでええんなあ。ほんならそれでいきましょう」と答えたのである。話し合いの冒頭には「君が代の実施と同和教育推進の整合性について苦慮している」とも述べている。そして、東風上発言のように要請書を県教委に送ることを確認して話し合いは終了したのである。
要望書の文案のすりあわせは後日ファックスと電話を使って、代表者間で行われた。報告書は、その際のやり取りも意図的に歪曲している。私たちが「国歌斉唱の文言は認めないと言った」という部分は「国歌であるか否かで意見が別れているのではないか」と指摘したのであり、「身分差別につながるの文言を入れよ」という部分は「これまで県教委自身がそう説明してきた」ことを相互で確認して挿入したというのが真相である。要望書(資料5−1)は、このようにしてまとめられたのであり、強制的に書かせたというものではないことは新聞報道(資料6)からも明らかである。
これに先だってもたれた福山地区の校長会との話し合いも同様であった。校長協会支部長である中山誠之館高校長は「手も足もロックされている」と、県教委の強い圧力があることを裏付ける発言をした。出席した校長のほとんどは「君が代を実施するよう強く命令されたが、同和教育と矛盾するので悩んでいる」という意見であった。そこで、私たちも「君が代と身分差別及び国民主権との関係について整理するよう、県連として県教委に申し人れをして協議を進めている」ことを伝え、子どもたちが動揺しないよう慎重な対処を要請したのである。生徒を前にしてまじめに教育を進めようとする校長が、豹変した県教委の真意を質したいと考えるのは当然のことであり、要望書が送られることとなった。
この後、尾三地区とは2月25日に、福山地区とは2月27日に話し合いをもったが、これ以外に私たちとめ接触はまったくない。
C君が代の強制に苦悩していた石川校長
世羅高校では、2月17目の職員会議で、卒業式の式次第について最初の検討が行われた。石川校長は「校長会からの要望書に対する県教委からの回答を待っている状態なので、現時点では従来と同様の式次第で検討してほしい」と話すとともに、教職員の「納得のいく回答がなけれぱ『君が代』は実施しないということですか」という問いにうなづいている。
県教委は、この日も教職員の強い反対があったかのように印象づけるため、石川校長の日記の「八方ふさがり。希望なし」という記述を引用している。しかし、この日までに、教職員や生徒に対して石川校長が話してきた内容から判断すれぱ校長として実施すぺき立場にはあるが、差別の強化には加担できない。県教委の命令に従うことは自分の教育理念に反することになる。八方ふさがりだと解釈する方が自然である。それは、5日後の2月22日に解放研の生徒と話した席で、「日の丸・君が代の強制に反対だという皆さんの気持ちはよくわかります。地区の校長会に皆さんの気持ちを届げて、私なりに(強行させないよう)努力してみます」(広教協報告書)と述べていることからみても明らかであろう。
一方、県教委は20日、私たちのところへ「君が代と身分差別及び国民主権との関係について」なる文書(前掲)を提示してきた。5度目の協議であったが、私たちの問いにも、また要望書の中で校長らが指摘した中身にもまったく答えないものであった。これまで「君が代は身分差別につながる恐れがあり、国民主権に違反するという意見もある」と自ら表明してきたことを、何の合理的な説明もできないまま否定したのである。内田部長らは「これしか書きようがありません」と繰り返すだけで、教育内容にかかわる指導力のなさを露呈することとなった。そこで、私たちは「校長からの質問にも答えない県教委は無責任であり、『君が代』にかかわる教育的指導を放棄した」と判断し、22日の県連執行委員会において「強制には反対する」ことを再確認したのである。
23日、県教委は臨時県立学校長会を招集し、この文書を県教委の「最終見解」として押しつけ、辰野教青長が「日の丸・君が代」の実施を強行するよう2度目の職務命含を出すとともに、毎日の行動を逐一報告するように命じて間断なき圧力のために「24時間のサポート」に入った。石川校長は、日記に「県教委の指示。厳しい一日」と記しているという。この日、世羅高校では職員会議は行われていない。また、報告書に書かれたような「引き続いて行われた尾三地区校長会で石川校長は、卒業式での国歌斉唱の実施に向けて互いに頑張ろうと伸間の校長に語っそいた」という事実もなかったと、会議に出席した他校の校長が証言している。したがって、「厳しい二日」という表現は、再度の職務命令と24時間の監視宣言によっていよいよ追いつめられたという心境に他ならない。
石川校長は、翌24日に行われた職員会議では「今日は昨日の報告だけにするので、明日の職員会議で結論をだしてほしい」と話している。この事実を報告書の中に記述しておきながら、一方では「国歌斉唱を式次第にいれることを提案するが、教職員の抵抗が強く取り上げられなかった」と、完全に矛盾することを魑面もなく書いている。県教委の「調査」なるものが如何に牡撰なものかということを自ら暴露したものである。
D君が代は実施しないと決断した石川校長
2月25日、三原隣保館において解放同盟役員と尾三地区校長会役員との話し合いをもった。この席で私たちは「県教委の最終見解なるものは、校長先生らの要望書の問いにはまったく答えていない。君が代と身分差別や国民主権との関係が整理されないままで強行すべきではない」と考え方を述ぺた。しかし、東風上支部長は「職務命含が出たので実施せざるを得ない」と繰り返すだけで、合意点がないまま別れることとなった。
報告書には「話し合いの終了後、石川校長は『これから学校へ帰って会議をせんにゃいけん。しんどいのう』と同行した他の校長に語っている」と書かれている。しかし、石川校長が世羅高校に戻ったのは16時頃であり、三原市隣保館での話し合いが終わった11時30分ころからの行動にはまったく触れていない。東上風校長によって「必ず実施せよ」との強い説得にあっていた可能性が高い。さらに、16時50分から開かれた職員会議で石川校長が話した最も重要な以下の部分についても意図的に隠している。
職員会議で石川校長は「南部協との話し合いをもったが決裂した。話し合いの後、『同和教育との整合性がないので苦慮している。君が代の実施は難しい』と県教委へ電語をしたが、県からは『君が代についての最終見解はすでに示した。それにそって通達通りに実施しなさい』という答えしか返ってこない。でも、身分差別につながるものを生徒に強制できるか悩んでいる」と率直な心情を吐露し、管理職としてぎりぎりの悩める思いとしてあくまでも教育的良心をうらぎりたくないという良心をにじませて「教育長から職務命含が出ているので校長としてはお願いするしかありませんが、皆さんの合意が得られないならば従来通りでお願いしたいjと提案したのである。
この時期はすでに、自民党県議団が「卒業式当日に学校へ乗り込んで状況をチェックする」と発表した後であり、反動右翼の「広島県教育会議」もまた同様の「調査用紙」を各学校長やPTAに送り付けるなど、強制派の圧力と桐喝による本格的な介入が日ごとに厳しくなっていた時であった。だから、石川校長は「尾三地区校長会でまとまった解決策を求める動きはない。言葉に出せない苦悩はあるが、(先生たちと)みんなで決めたことをそのままやるしかない。(君が代の案施は)今まで広島県が行ってきた同和教育との整合性があるとは思えない。今すぐ実施というのは難しいと思っている。反面、公務員として上からの命含に反していると考えると複雑な思いがする」とも語っているのである。
世羅高校の教職員は、この厳しい状況の中で「君が代は実施しない」と決断した石川校長に最大の敬意を払いながら「昨年通りの卒業式」の実施を確認したのである。そして、石川校長の「この決定について、対外的には『検討中』ということにしておいてほしい」という提案に対しても賛成し、全員一致して「最終決定は28日の職員会議まで保留であるという装いをこらす」ことにしたのである。この事実にこそ、県教委がいう「24時間のサポート」なるものが何をもたらしたのかその本質が暴露されている。「君が代」実施せずの情報を県教委に察知されたらどんな圧力が加えられるかわからないという、石川校長の恐怖感がなさしめたものに他ならない。これは、県教委への報告では「連日にわたって長時間の職員会議がもたれた」かのように装っていたこと、しかもそれは教職員と口裏を合わせた行動であったこと、自宅の電話器に発信者表示装置をつげて県教委や東風上からの電語に出ようとしなかったこと、学校の讐備員に「生徒のこと以外の電話は取りつがないよう」指示していたことなどからも明白である。
この日の日記は「厳しい状況。帰宅して今後の進退を考える」と記されているようである。その心境は、自己の教育的良心にしたがって「君が代は実施しない」と決めた石川校長が、その真面目な人柄のゆえに「2度の職務命令にも従わないと決めた以上、管理職の地位に留まることはできない」と考えたからであろう。亡くなったときに見っかったという「……管理能力はないことかも知れないが……」というメモも、このような心境を表したものであり、県教委に対する抗議と見るのが自然であり、必然の帰結としなけれぱならない。
また、最終的に「君が代」を実施させられたか否かは別にして、県内の少なくない校長が石川校長と同様に「辞表を懐に'いれて県教委の強制に抗議の意志を表していた」ことを私たちは知っているし、卒業式後に「進退伺い」を提出した校長もいることはマスコミで報道もされている。自らの職をかけてでも「君が代の強制は非教育的である」ことを訴えた校長らの良心は、決して石川校長だけではなかったのである。
E同僚校長の裏切りで孤立させられた石川校長
25日に「君が代は実施しない」ことを決断した石川校長は、翌26日、部落解放同盟世羅支部の役員を訪ねた。「日の丸・君が代」をめぐる石川校長と世羅支部との接触はこの時だけであり、自ら電話をして世羅町福祉会館に来られたのである。その時の会話は以下の通りであるが、応対した世羅支部の中島書記長は「短時間の訪問であったが、決断した時の人間の強さと石川校長の温かな人柄がにじみでていた」と話している。
校長 「君が代」の問題で私の気持ちを話しに来ました
同盟 ご丁寧に、お気遣いをいただきまして
校長 どうも力不足で、尾三地区校長会では、これまでの同和教育を守るための結束ができませんでした
同盟 たいへんご苦労をおかけしていますね
校長 職務命含というのは心の内面まで立ち入ることはできないはずですが、とうとう出されてしまい、苦悩しています
同盟 そうですか。それで校長さんはどうされるお気持なのですか
校長 何とかいい方向でやろうと思います
同盟 いい方向というのは「君が代」を歌わないということですか
校長 苦しくても、その方向でやりたいと思っています
同盟 良心的に生きるということはむずかしいことですね
校長 これからも連携をとらせていただきますが、県教委からも、校長会の幹部からも、地域の有力者からも圧力がかかって きています。それでも頑張らなくては、差別の助長だけは避けたいと思っていますので
また、卒業式を3日後に控えて、打ち合わせのために石川校長を訪れたPTA会長も「26日タ方・卒業式について校長室で会った時には「日の丸・君が代は、結果として昨年通りになりそうだ』と話し、悩んでいる様子は感じられなかった」と述ぺて(3月1日付、中国新聞)いる。この事実から、石川校長は、県教委や東風上校長らが仕立て上げようとした「君が代の積極的な推進者」といったものではなく、実施しないという結諭は、石川狡長の教育者としての良心であり強い人間的姿勢のあらわれの二面であった。この中国新聞の記事と同じことは、校長自殺後の近い日に、世羅支部中島書記長がPTA会長面談の時、同様のことを確認している。ただ校長の自殺のあとを受けてということもあって、悩んでいたことを思わせるニュアンスのものがあったということは、一連の経過からして当然のことである。
ところが、この日の夜、石川校長のところへ、尾三地区内の高校のほとんどは「君が代」を強行するとの情報が入ったらしい。報告書では情報の入手先を明らかにしていないが、県教委や東風上校長らから「世羅はどうするのか。ほかは全部実施を決めたぞ」という圧力がかげられた可能性が最も高いといえる。石川校長の苦悩は再び大きくなった。そこで、報告書によれぱ、22時過ぎまで教頭と協議した後、世羅商校の前任校長にも電話で相談した。報告書では、教職員の強い反対で思わず「国歌斉唱はしないと言ってしまった」ように強調されているが、前段に書かれた「他にも国歌を実施しない学校があると思っていたため判断を誤った」という言葉にこそ真実がある。ついこの間まで「君が代は同和教育との整合性がない」と言っていた東風上校長ら同僚の裏切りにあい、教育者の良心にしたがって決断した自分が孤立させられたという思いがにじみ出ている。とりわけ、同和教青に先頭をきってとりくんでいた東風上校長(この人は広島部落解放研究所の監事であった)の態度に著しい不信感を抱くことになった。
次項で詳しく明らかにするが、亡くなる前日の「カラオケルーム」での話し合いで「孤立してしまうのが心配だ。教頭にも処分が及ぶかもしれないので忍びない」と組合役員に話した事実がこれを裏付けている。
F自殺前日から石川校長へ激しい圧力
亡くなる前日の27日夜、石川校長は実井教頭と一緒に、二人の組合役員と御詞町内のカラオケボックスで話し合いをもっている。この時の内容について県教委は、当事者の組合役員から詳しく事情を聴取しておきながら報告書ではまったく触れていない。
この話し合いは、連絡をほしいという石川校長からの伝言を聞いた組合役員が校長宅へ電話をした際、「県教委からの電話や地域からの圧力など、外圧が強くなっている。形だけでもいいから職員会議を開きたい」という石川校長のせっぱ詰まった声に驚いて、「それではこれから会って話しをしましょう」ということで行われたものである。この席で、石川校長は「今日、県教委の指導課から「小池理事(世羅出身)が世羅高校はどうなっているのか(君が代を実施するのか)と心配している。ぜひ実施するように」という電話があった。また、情報収集をしたところ、「君が代」を実施しないと決めているところはうちしかない。もう少しあると予想していたので、孤立してしまうのが心配だ。実施しなかったら、処分は校長だけでなく教頭にも及ぷかもしれない。降格も予想されるので、私としては忍びない」と、激しい圧カが加えられている事実を話している。
また、報告書で「分会長は28日の職員会議を中止して職場会議に切り替える旨の連絡を、分会書記長を通じて電話連絡網で全分会員に伝えた」とされている点も真っ赤な嘘である。世羅高校では、もともと28日に職員会議を開く予定はなかった。校長と電話で話をした際に「職員会議を開くかどうかも含めて、会ってから相談しましょう」と言った分会長が気をきかせて、いつでも職員会議が開げるように「とりあえず28日には全員が集まってもらいたいと連絡するよう書記長に頼んだ」というのが真相である。報告書は、君が代を実施しょうとする校長の願いを「組合は最後まで足げにして石川校長を追い込んだ.という印象をつくり上げるために、まったくの虚構を書いているのである。
カラオケボックスで石川校長・実井教頭と会い、前述したような県教委からの伺喝が続いていることを知らされた分会役員は、石川校長の苦悩を察しながら「一緒に悩んで決めたことじゃないですか。日々の教育実践でも校長さんと力を合わせてやってきたんだから、一緒に頑張りましょう。他校でも最終決着はたぷん明日になるでしょうから、まだまだ(君が代の不実施が)期待できないわけではありません。もし処分があった時には、4人で受けましょう。私たち二人の分会員がじゃましたと報告してくだされぱいいです」と激励した。石川校長は、実井教頭の方を向いて同意を求めながら「それじゃ、従来通りでいきましょう」と、自分に言い聞かせるようにして答え、その後は生徒の話や雑談をして、カラオケボックスでの話し合いは1時間程度で終わったのである。
報告書は、この重大な内容にはまったく触れていない。石川校長と世羅高校の教職員は常に対立状態にあり、これが「日の丸・君が代」をめぐって決定的なものとなり、校長を自殺に追い込んだとする、県教委が構成した筋書が成立しなくなるからである。教職員と石川校長が子どもを中心とした節度ある人間関係にあったことは、PTA新聞に書かれかれた、「学校においても積極的に生徒指導に取り組み、子どもたちが将来の目標のもてる教育環境づくりに努力をしていただきました」というPTA会長の挨拶文によって証明されている。この挨拶文には「陸上部が全国高校駅伝大会に出場を果たし、今年の活躍に大きな肴望を抱かせました」とも書かれており、校長を先頭にして教職員が一丸となり、教育実践に取り組んできたことに対する感謝の気持ちが述ぺられているのである。この事実は、この日の「19時過ぎ・電話で石川校長と話した尾三地区校長会の支部長(東風上校長)は、石川校長から「君が代をやるなら日の丸もやらない。駅伝の送迎も学力補充も非協力だといわれた。今回は実施できんかも。教員と話をし、頑張ってみる」と聞いた」という報告書め中身弁解のためのデッチ上げであることも証明している。こんな嘘を平気で並ぺる東風上校長こそ、何としてもやらせようとして圧カをかげ統けた張本人である可能性が大きい。なぜなら、石川校長は翌28日の朝、何度も鳴らされた東風上校長からの電話にも出ようとしなかったからである。
分会役員との話し合いを終えた石川校長は、22時過ぎには自宅に帰っている。自宅には「一日の行動の詳細な報告を求める」県教委からの電話が何度もかかってきた。しかし、石川校長はこれには応じず、日付が変わった午前1時45分頃になってから「いま自宅に帰った。生徒と話をしていた。特に連絡することはない」という電話を県教委に入れている。帰宅時間も、行動の内容も、まったく虚偽のことを言わざるを得なかったのは、まさに「君が代を実施しないことを察知されて、さらに厳しい圧力がかけられてくる、ことを恐れた」こと以外に、合理的な理由は見つからない。県教委の報告書では、この点も意図的に無視し歪曲している。
G来山主幹指導主事(当時)と砂田次長(当時)による恫喝が直接的自殺の引き金に
様々な圧力にも屈せず、石川校長は「君が代は実施しない」ことを改めて決断した。仲間だと思っていた同僚校長らの裏切り、県教委の徹底した監視や自民党県議らの恫喝にも耐えて自己の良心を貫こうとした石川校長の苦悩はいかぱかりであったろう。だから、28日の朝、「親友」を自称する東風上校長からの電話にも出ようとしなかった。これ以上、苦しめないでくれという精一杯の意思表示であったとみるぺきであろう。
ところが、こんなことで「憔悴しきった」石川校長に対して追い討ちをかげるべく、東風上校長は来山主幹指導主事を校長の自宅に派遣した。県教委の報告書では、東風上校長は「様子を見に行ってくれるよう依頼した」としており、来山主幹指導主事は「卒業式はやると教職員が言っているなら、君が代はやらなくてもいい」という趣旨のことを話したとしている。それが事実なら何故、来山主幹指導主事と別れた直後に石川校長は自殺しなけれぱならなかったのか。真相はまったく逆であろう。それは、東風上校長が「情勢の変化について伝えてくれるよう」にも「依頼した」という報告書の記述が如実た物語っている、上手の手から水が漏れたのである。
東風上校長のいう「情勢の変化」とは、報告書(県教委)によると「解放同盟県連や高教組が昨日方針を転換した」というものである。つまり、私たちが「君が代」の実施を容認したというデマを使って、何が何でも石川校長に「君が代」を実施させようとしたことを自ら暴露し、来山の言ったこととの矛盾を白日にさらしたのである。6月8日に行われた同和対策予算説明会の場における「来山主幹指導主事が君が代は実施しなくてもよいという趣旨の発言をしたというのは事実か」という私たちの質問に対して、「本当です」と答えた榎田課長の弁も、報告書にある「来山主幹指導主事は、9時10分から25分まで石川校長宅にいたが、校長の表情が少し緩んだようであったので自宅へ戻った」というくだりも虚言そのものであろう。「君が代」を実施しなくても良いと言われて、石川校長の、「憔悴しきった表情が緩んだ」のなら、その直後に自殺する必然性はまったくない。亀井参議院議員は月刊誌のインタビュー記事で「来山主幹指導主事は30分間石川校長宅にいた」とまったく異なった答え方をしている。この誰が見ても当たり前の疑問に対して、県教委ははっきりと答えるべきであろう。
自宅に押しかけてまでの来山主幹指導主事による「指導」が、「親友」の東風上校長の差し金であることを聞かされて、石川校長がいっそう追い込まれた心境になったことは想像に難くない。さらに決定的となったのは、砂田次畏(現教育部長)も来るという情報である。砂田次長は、校長らを直接指導する権限をもった教育部のナンバー2であり、2月20日には世羅高校をわざわざ訪問して「君が代」の実施を迫った人物である。石川校長は、この日の日記に「砂田次長来校、国旗・国歌の件でハッパをかけられる」と記して(東京新聞の報道)いたが、砂田次長が演じた強制のための恫喝を隠すため、報告書にはこの事実が書かれていないし、また参議院予算委員会における亀井発言でもふれられていない。この3日後の23日には職務命令が出され、次々と加えられた激しい圧力に耐えながら教育者の良心を貫こうとしていた石川校長も、東風上校長と、その命を受けた来山主幹指導主事に加えて、砂田次長という「大物」までやって来るという連携ブレイによって、ついに退路を断たれたのである。
石川校長の自動車内で発見されたというメモに書かれたr……管理能力はないことかも知れないが……」という言葉は、「君が代を実施しないと決定したことは管理職失格であると非難されるかもしれないが、これが教育者としてとるべき態度であろう」という、県教委や東風上校長らに対する抗議だと理解するのが最も自然である。また、続く「自分の選ぶ道がどこにもない」という言葉は、自己の教育的良心にしたがい、苦悩の中で出した結諭に対して集中的な恫喝が加えられたため、ついに進退極まった切ない心情に違いない。
H真実を隠蔽する県教委の画策と恥知らずの行動
県教委は、石川校長が亡くなった日に行った記著会見で「解放同盟の動きはなかった。組合の反対も突出した状況ではなかった」旨のことを発言しており、また、山下書記次長からの電話に応対した信楽同和教青課長は「世羅高校はノーマーク」だったと答えている。つまり、石川校長は「高教組を中心とする組織的な反対運動が全県的に展開された。特に国旗及び国歌の実施については、更に解放同盟の組織的な反対運動が加わり、厳しい状況となっていた」ので「君が代は実施しない」ことを決めたのではなく、主体的に決断したことを県教委自身が認めていたことになる。
ところが、それでは石川校長を死に追い込んだのは県教委ということになってしまうと考えた辰野教育長らは、事実の隠蔽工作にかかった。石川校長が死を覚悟するまでに追い込んだ27日から28日にかけての徹底した恫喝は絶対に明らかにしてはならないと、関係者の間で意志統一をはかったのである。しかし、これまでに明らかにしてきたように、そのもくろみは多くの人たちによる証言と、県教委自らが作成し発表した報告書にみられる数々の矛盾点や、行間ににじみ出ている真実によってもろくも崩れ去ったといえる。
28日の夜、県教委は御調高校に小池理事ら幹部を派遣し、尾三地区の校長を集めて秘密の対策会議をもっている。ここで、石川校長を「君が代実施の積極的な推進者」に仕立て上げることを確認し、県教委は圧力をかけていない、石川校長は東風上校長に本音を話していた、解放同盟や高教組の激しい反対連動が石川校長を殺したという構図をつくり上げて、真相の隠蔽にかかったことは疑うぺくもない。そうではないと言い張るのであれば、何故県教委は部落解放同盟に事情を聞いて、判断をしようとしなかったのか。
県教委や東風上校長らは「君が代」の実施に血道を上げていた。だからこそ東風上校畏、石川校長が亡くなった直後の病院内で駆けつけていた教職員らの前で実井教頭にむかって「明日はおまえが絶対に国歌をやれえ。やらんにゃこらえんぞ」と大声で罵倒したのである。さらに、通夜の席では辰野教育長と握手を交わしている。この姿を目撃した参列者から「遺族はもとより、お参りに来たみんなが悲嘆にくれている席であんなことができるとは。いったい二人はどんな感覚をしているのだろうと思った」という批判の声が私たちのところに届いている。この東風上校長は、今春の人事異動で晴れて尾遺北高校へ「栄転」となり、彼と同様に「君が代」の実施を管内の校長に働きかけていた福山誠之館高校の中山校長は、地区内に実施しなかった高校が多かったためか定年前で退職というまったく対照的な結果となっていることも付記しておかねぼならない。
さらに、「現地対策本部長」として御詞高校における謀議の中心的役割を演じた小池理事は、葬儀の場で出会った世羅中学校、甲山中学校の校長らに「卒業式には必ず君が代を実施するように」と念を押している。これを聞いた参列者は「石川校長の葬儀は、死者を弔うというよりも、さながら『君が代』強制の実演場だった。許されない」(芸備人権新報)と、怒りを込めて語っている。何という冒涜だろうか。恥を知るべきである。
いまひとつ不思議なことは、石川校長が「27日の午後に書いた」とされている卒業式の「式辞」が行方不明になっていることである。「学校にはなかった」と発表しているが、公的な文書、である「式辞」を家庭にもって帰ったとしても、しかるぺきところに置いてなけれぱならない。しかし県教委は「家庭にもなかった」と言うのである。「式辞」には、石川校長が「君が代」不実施を決断するに至った心境(それは県教委などからの圧力を裏付けるものとなる)を書いていたため見つからなかったことにした可能性が大きい。亀井議員の参議員予算委員会における発言で砂田次長の行動を意図的に隠していたことと符合する。これを否定したいのなら、県教委は万人が納得するように説明すぺきである。
I「反対勢力による圧力」というデッチ上げ
これまで明らかにしてきたように、石川校長は主体的に「君が代は実施しない」ことを決断した。それは、卒業式で実井教頭が「式辞」のかわりに代読したPTA新聞の「卒業生の皆さんへ」という挨拶文からも明白である。その最後に石川校長は、"人生は長い道なり、平だといいのに登りもあれぱくだりもある、広いところもあれぱせまいと.ころもある、ただひたすらに己の道をいく〃という若山牧水の詩を引用しており、まさに、厳しい圧力の中で苦悩の選択をした心中を表わしている。
県教委は、自らが行った執拗なまでの恫喝や圧力によって石川校長を死に追い込んだという事実を隠蔽するため「高教組と解放同盟の反対運動」が原因であると強調している。しかし、私たち部落解放同盟と石川校長との接触は、BDE項で述ぺたことがすぺてである。また、普段から教職員とは節度ある関係であったこともまた、教職員にだけは「様々な外圧がかけられて苦盧している」と本音を話していた事実や、PTA会長が書いた新聞の挨拶文によって明白である。だからこそ、県教委は「日の丸・君が代」をめぐる議論とは無関係なことまで長々と報告書で並べたて、しかも組合の分会が校長に様々な因縁をつけて困らせていたかのように表現している。石川校長が着任して以来、教職員との間に日常的な対立状況があったように印象でけることを狙ったのである。
このように事実を歪曲し、虚偽を並ぺたてる中に、自らの悪事をおおい隠そうとする県教委の悪辣さが現われている。石川校長だけでなく、多くの校長が「実施したくないのなら辞表をもって来い」「実施しなかったら降格か辞職勧告の処分になるぞ」「あんた一人の処分では済まされんぞ」「人配や予算でええことにならんぞ」などと激しく恫喝され、「いま、どこで、何をしているのか遂一報告せよ」と1時間ごとに電話をかけてこられたと、相手(県教委職員)の実名をあげて証言している。この校長らの心の叫びまで、県教委は否定しようというのであろうか。
県教委の尖兵となって石川校長を追い込んだ東風上校長も、断じて許されるものではない。本当に石川校長のことを「心配」して、いたのであれば、なぜ自ら「励ましに」行かなかったのか、東風上校長の自宅は尾道市美之郷町であり、石川校長宅まで自動車なら20分たらずめ距離にあるのだ。旧くからの「親友」を自認するなら、わざわざ県教委まで「元気がないので励ましてやってほしい」と電話をかけるほど「心配して」いた27日夜も、「解放同盟や高教組が戦術転換したことを早く伝えようと」した28日の朝も、なぜ自分で会いに行かなかったのか。答えは明白である。石川校長が「電話口に出なかった」ため、自分の力ではもう石川校長を屈服させられないと判断し、来山主幹指導主事と砂田次長というさらに強い恫喝によって石川校長を翻意させようとしたからに他ならない。
また、東風上校長がいう「解放同盟や高教組の戦術転換」は、県教委や市町村教委が校長を「落とす」ために使った汚い手口であることが明らかになっている。いま右翼マスコミは、石川校長を韓国への「謝罪」修学旅行を仕組んだ張本人であったと攻撃している。修学旅行の内容がいかなるものであったかは、現地での生徒のアピール文(資料7)が何よりも明らかにしている。
東風上校長が、石川校長のことを本当に「心配していた」と言い張るのなら、亡くなってなお石川校長の尊厳を冒涜する右翼勢力に対して、反論すべきであろう。
3.「君が代」の歌詞と身分差別−われわれの立場
われわれが「君が代」強制になぜ嫌悪し、抵抗するかを理論的にふれておきたい。 まず歌詞のもつ思想である。「君が代」の「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」という部分は世襲身分の天皇制が千年も万年も続くようにというのであるから、長い歴史の間、身分差別に苦しみ抜いてきたわれわれとすれば、身分制度には強い嫌悪感を持たざるをえない。
封建制度は親代々から「仇でござる」といった福沢諭吉の気持ちをはるかに上回るものである。なぜなら最下層身分としての非人間的扱いの中で生きていかなければならなかったからである。つまり、天皇制イデオロギ−は身分差別の固定化をはかるものとの分析ができるからである。
県教委は、「君が代」の「君」は天皇である、その天皇は「象徴」だと憲法にあるのだから身分差別にはつながらないのだと説明する。しかし、「天皇は神聖にして侵すべからず」の時代に歌った歌詞をそう説明してみたところで「痛くも痒くもない」ものはいざ知らず、われわれにはそう思えるはずがない。
つづいてこの「象徴天皇」といわれる地位は、皇室典範によって「男系の男子」にかぎるとなっている。これでは、女性差別撤廃条約に反することも勿論だが、「両性の本質的平等」を規定する憲法にも反するものとなる。人口の半数を占める女性を差別する制度が「象徴」とは納得がいかない。身分差別の属性としての側面をもつ女性差別が、いまなお日本の天皇制に存在していることを物語るものとして認識しておかねばならない。
そして、そこから必然的に導き出される論理として、日本国憲法の基本的原則である国民主権の精神に反しているということである。身分差別を敢えて是とし、女性差別を当然とし、人口の半数以上のものを制度的に侮辱するようなものが、どうして憲法精神に合致したものといえようか。歴史の推移の一時期の妥協の産物としての天皇制を永久化、固定化する思想を持つ「君が代」を公式行事に歌うことを強制するというのは容認できない。
だが、県教委はいうであろう。「それでも憲法第一条には天皇の規定があるではないか」」と。そのあるという事実は認める。それは、俗に言う「床の置物」にすぎないのであり、憲法学者のいうように「象徴にすぎない」のである。「天皇の国事に関する行為にはすべて内閣の助言と承認を必要とする」ような「象徴天皇」を永久に存在させることをよしとする思想を謳歌することはできない。
国民主権の日本の歴史的現実にふさわしい歌がほしいというわけである。現在唯今憲法に「象徴天皇」があるというものに対しては、現在唯今、憲法に「法の下の平等」「良心の自由」しかも、これを、守るための制度的保障として「集会、結社、言論の自由」が存在すると言いたい。
われわれが会合をもって、「君が代」強制反対のための相談をすること自体を「悪」ときめつけるような考え(「県連は、県校長協会の各支部や個々の学校に対し『話し合い』の場をもつよう申し入れを行うなど国旗、国歌に対する反対運動を県内各地で展開した」「広島県立高等学校長の自殺について」より−)が県教委の中でも、その応援団体でもされているが、憲法精神にもとるものと言わねばならない。
しかも、憲法は、それらの権利を守るために「国民不断の努力」を要請している。「世界人権宣言」はその前文において「人間が專制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えざるを得ないものであってはならないならば、人権は法の支配によって保護されなければならない。」と言っているということも近代合理(主義)社会の重要な留意点として頭に入れておかなければならない。
古くは孔孟の教えのころから、アジアの思想には「易世革命」を肯定するものがあった。
われわれが、自分勝手な事を言っているのではないことが理解されるであろう。県教委の「君が代」肯定論とそれを応援するものに、その深い思想への理解がないところに混乱のおこる理由がある。
古くは47年前、吉和事件なる同和教育のとりくみを促す出来事があった。このとき県教委自身が作成した「同和教育の手引き」の中に、「同和教育は、この現実差別を見きわめながら、あるいはこれに抵抗し、あるいはこれに対処しながら、民主的社会人としてののぞましい形成を企図していく積極的努力といえましょう」「社会の矛盾や不合理に対してはその正義感に訴えてこれを改善し社会正義を実現していく積極的な意欲と実践力をもった人間へと高めていくことが大切になってきます」「部落差別の基盤となっている社会機構の矛盾を自覚させ、その解決のためにたちあがる力を与えることでありましょう。社会正義を実現しようとする知性と実践力をつちかい解放意欲を育成しなければなりません」などの表現をもって身分差別解消のために努力する人間像の要請を書き込んでいる。
1965年の「同対審」答申も、同和教育にかかわるところで「同和教育の中心的課題は法のもとの平等の原則に基づき、社会の中に根強く残っている不合理な部落差別をなくし、人権尊重の精神を貫くことである。同和地区の教育を高める施策を強力に推進するとともに個人の尊厳を重んじ、合理的精神を尊重する教育活動が積極的に、全国的に展開されねばならない」と述べている。またその直後の県教委が中心となって策定した「同和教育、行政施策の方針」の中には「同和教育の目的は、このような基本的認識にたって、部落差別の根絶を期し、同和地区児童、生徒に対する進路の保障につとめるとともに、すべての県民に対して人権尊重の自覚をたかめ、差別に対する科学的認識を深め、現存する差別の実態をなくしようとする意欲と実践力をもった人間を育成することにある」と書かれている。
ここで特に重要なことは「現存する差別の実態をなくしようとする意欲と実践力をもった人間を育成することにある」というところである。
「君が代」の「君」とは天皇のことであると言明され、それこそ身分差別の典型的なものとして次第に歴史が超克しなければならないものを賛美せよと公教育でこれを歌わせようとする。その「学習指導要領」がいかに「意欲と実践力」をそぐものであるかということである。
公教育は、このような歴史的課題の前に立たされているものの「個人の尊厳」に、「あなたたちは別枠に生きる人間だ」という恪印を押することになる。この種の民主主義、基本的人権の尊重ということが、為政者にわからないというのでは、日本の民主主義の未成熟を物語っているとしか言いようがない。
ときあたかも、戦争準備法ともいうべき「ガイドライン関連法」が制定されようとした時期でもあった。そして、ついにこの関連法は衆参両院を通ってしまった。かつて「君が代」の思想、「天皇陛下の御ために」「一君万民」(これが象徴天皇制を理由にして天皇制賛美は国民全体の幸せを願うものと今日では詭弁的に語られている)と言われ、戦争に多くの若者がかりたてられたことと相関性のあったことを忘れてはならない。その戦争準備法の時代に入っているということである。
広島はかつて、日清戦争のとき大本営の置かれたところである。そして、第五師団、第十一聨隊の設置されていたところである。アジアを戦場として日本が戦った最前線の指揮をとった土地柄である。しかも戦費調達のための国会まで開かれたところである。つぎつぎにその後に続く戦争に、若者を送り出す基地であった。
宇品港から出陣した多くの兵士の帰らざる人のどれだけあったかに心を痛めずにはいられない。また県内にはわが国最大の海軍基地呉鎭守府があった。勿論呉工敞のごとき軍艦建造の施設もあった。戦艦大和はここで作られた。福山には陸軍の第四十一聨隊があり、大竹には海兵団があった。
そして、竹原の大久野島では毒ガスが製造されていた。七三一部隊の使用した人体実験の各種毒物は、ここで製造されたという人もいる。
戦争末期、ついに広島は原爆の攻撃にさらされ、一瞬にして廃墟となり、幾十万の市民の死傷者を出した。その後遺症はいまもつづきこれの痛みにたえかねている。
呉市と福山市はB29の爆撃を受け、市街地の重要な部分を焼失し、ここでも多く死傷者を出した。
再び、戦争があってはならない。再びこの苦しみを子孫にあじあわせてはならない、と日本国民は誓ったのである。それが憲法第九条の精神として結実したといわねばならない。 戦争は、いろいろいいわけはあるとしても、そのこと自体が「理不尽」な行動であり戦争をするもの同士の関係は、理屈を越えた世界で残虐な行為がくりひろげられる。
日本軍の行為に目を当てれば七三一部隊の人体実験、南京大虐殺などがそれであり、従軍慰安婦なるアジア各国の女性に対する仕打ちであった。
さらにこれらの諸現象のもう一つ奥深いころに、朝鮮の併合という名の植民地支配。さらに中国東北部に「満州国」建国、中国本土には汪兆銘傀櫑政権の樹立となった。アジア太平洋全域に派遣された兵士は補給路を断たれ、武器、弾薬、食料の供給が行われなくなり、戦局は逆転し食べる物がなくなり、南海の島々で多くの若者が生命を失った。ニュ−ギニアのガダルカナル島、サイパン島、硫黄島、北海のアッツ島などで兵士たちは「玉砕」と呼ばれる全員戦死を遂げることになった。
日本軍の侵略した地域における現地住民は、これまたどれだけ苦しい目にあわされたことであろうか。これこそ筆舌につくしがたいものがあるとしなければならない。
このような残虐なことが、「一君万民」の思想のもとに、「八紘一宇」の理想だなどと常に天皇制イデオロギ−を基軸にすすめられてきたのである。
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて…」の歌詞の恐ろしさは、ここにあるのである。少し、年配の人は思い出すであろうが「海ゆかば水く屍、山ゆかば草むす屍大君の辺にこそ死なめ、帰えりみはせし」も、この天皇制イデオロギ−、侵略肯定、戦争肯定のために青少年の頭のなかに叩き込まれ、マインドコントロ−ルはいかんなく行われたのである。
かつて、広島は原爆の惨禍にさらされ、沖縄は陸上戦の悲惨を味わった。そしてアジア、太平洋戦争が終結して、五十数年の歳月がたってもなお、沖縄県には米軍基地の75%が存在し、ここから米軍の軍事行動は発進している。
広島のすぐ隣の岩国にも米軍基地が存在する。港湾の拡張整備もすすめられている。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」とは原爆慰霊碑に書かれた文言である。
広島県の教育が、平和教育に力を注ごうとするのは当然の歴史的務めとしなければならない。
自由主義史観は、「満州国」建国の謀略を美化し、七三一部隊の残虐を反省せず、南京大虐殺を否定し、従軍慰安婦の事実になんらの倫理的反省をしようとしない。
皇国史観は、「天孫降臨」による万世一系の天皇ということをいう。その対極の被差別部落民に対する今日における新たな差別感情を流布している。それが今日の広島県における「君が代」強制の策謀というものである。
われわれは、カタカナの「ヒロシマ」の平和思想のもとに、公立学校といわず私立学校といわず、現場の教職員と固く連帯し、「平和」と「人権」は一体的なものであるとの考えのもとに、戦争準備の諸政策に反対する。
「世界人権宣言」が「平和」と「人権」の相関性について、全人類に提起していることを忘れてはならない。究極、現在、天皇制を謳歌し、これを賛美する手段を必要とするものは、自己の立場をいかに強固にしようかとそれぞれの都合によってやっているに過ぎない。憲政の神様と称される尾崎行雄がかつて衆議院で行った演説に「玉座を砦に詔勅を弾丸にして、政敵を倒そうとしている」というのがあったが、その手段に露骨さを加えたのが、広島県の「平和教育」「人権教育」に対する攻撃である。われわれはこの事態に断じて安閑としておれない。
4.県教委の「君が代」見解の欺瞞
県教委の「君が代」に対する見解は、これまでのとりくみを無視して、いかにして「君が代」実施を押しつけようかと屁理屈に終始している。
県連が呼びかけてその見解を問いただすまでは頬被りをしたままで逃げ切ろうとしていた。県教委の主張は、文部省のコピ−であって、その域を出ないためにいわゆる「身分差別につながるおそれ」を指摘した「菅川文書」と何の継続性もそれをふまえた解決策もなかった。つまり行政手段で最も必要とされる「公定力」「急変回避」などの原則がふみにじられているということであった。
いまの憲法は「象徴天皇」を認めているのだからというのが精一杯で何回か県教委に問いただしても、そこをオウムがえしにするだけであった。
「憲法と法令に従って」というセリフは「象徴天皇」制の憲法上の規定と、「国歌を斉唱するよう指導するものとする」の「学習指導要領」の文言を盾にとったものである。
だが憲法にいう「象徴天皇」制が身分差別の固定化であることは明らかである。この憲法のもつ唯一の体系的矛盾であることは否めない。「すべての国民は法の下に平等である」としており、「社会的身分又は門地により差別されない」としていることによって明確である。しかし、今直ちに、この憲法上の矛盾の部分を県連は、二者択一的に取り扱おうとしているのではない。「序々に、人間平等にあつかわれなければならない」という穏健な道を歩んでいるからである。ある党派性をまる出しにした運動団体のように真正面から 「国家独占資本」とか「資本主義体制」の矛盾だとそこで逃げ口上を求めようとする無責任な態度はとらない。あくまでも一つひとつの積み上げによる市民的権利獲得の取り組みであることを打ちだしている。
要は、現在到達している水準をさらに悪化させようとすることについては、危機感をもってのぞまざるをえないということである。
そこで、「象徴天皇」制がかつての「絶対天皇」制に逆戻りをしないように日頃から取り組むということは当然のこととなってくる。ちなみに知られざる天皇制の一面を紹介してみよう。天皇が、あるいは皇太子が地方を旅行するときには、その沿道筋で「葬式を遠慮せよ」「洗濯の干し物をするな」「自動車の駐車については尻を向けるな」などのふれを市町村は国からの意向だとして民間団体などを通じて関係住民に押しつけている。
かつての国鉄(現JR)は県連からの指摘があるまで天皇家の者が列車を利用する「御召列車」規程に「線路が上下に交差する箇所において、御召列車が下方の線路を運転するときは、同時に上方の線路に他の列車又は車両を運転させてはならない」と定めていた。「象徴天皇」制はこのように国民を愚弄するイデオロギ−的浸透効果をねらっていた。
国会では1990年(小森議員当選・「元号」強制追及)までは、議員個人の「国会質問書」が「元号」表記でない場合は受付け段階で、それを拒否されていた。「元号」はいうまでもなく、天皇の「即位」との関係で改定するもので、「天皇制」そのものである。天皇制イデオロギ−の強制はこのような不合理をいまもって演じ続けている。
それを裏付けするかの如く、『朝日新聞』(6月3日付)によれば外務省が海外の大使館などを通じて配っている英文の日本紹介の冊子に「君が代は天皇の治世」としていると報じている。あまりにも恥ずかしいことであり「君が代」法制化にさしさわりがあってはいけないと、この文書の配布を中止したという醜態までさらしている。
さる1月24日、広島市の県民文化センタ−において「君が代」強制への援護射撃のために、広島県教育会議結成準備大会なるものが持たれた。その際のことであるが「天孫降臨」のオ−プニングセレモニ−で始まったことは広く知られている。
県教委は「象徴天皇」だから憲法に合致していると強弁している。しかし、これら一連の事実を考察するとき、明らかに「国民主権」と民主主義の常識に反するイデオロギ−の注入が日ごとに権力を後盾として取り組まれていることは明白である。
県議会で毎日のように騒ぎ立てて、身分解放のとりくみをしている部落解放同盟を誹謗中傷している県会議員にあっては事務所に「教育勅語」をかかげているというアナクロニズムが行なわれているのである。このようなことは、この「勅語」にある「一旦緩急あれば義勇公に奉し…」の精神を復活させようとするものであり、危険きわまりないものである。
こんなとき、憲法に「象徴天皇」があるから「君が代」は是としなければならないというのはあまりにも現実から離れた空しい詭弁であり、県教委が弁解のセリフの打ち合わせをしていることがうかがえる。
ところで、この「憲法」にかかわる問題で、石川校長の「親友」でありながら、「サポ−ト」という名の圧力を県教委と共同プレイでかけた県立高等学校長協会尾三地区支部長の東風上校長(現尾道北高)はある友人に対し、「君が代」実施にかかわって「君は憲法を守らぬ気か」と言ったことも判明している。ここまでエスカレ−トして「象徴天皇」だけが憲法理念となり、「良心の自由」とか「個人の尊厳」とか「法の下の平等」などは全く没却されるというところまで、この人たちの間では憲法解釈が偏向しているのである。
憲法というものはすべての法、法律的なものの最高法規であることによって、その守備範囲は多岐にわたる。相当考えて制定されているようでも、精神的基調から考えて齟齬を来たすようなものもある。
日本国憲法で言えば、人類普遍の原理たる「個人の尊厳」「社会的身分または門地などによる不平等を許さない」と矛盾する「象徴天皇制」あたりのことである。また「皇室典範「皇位継承権」を「男系の男子」としていることも女性差別そのものであり、「両性の平等」に反しているのである。
このような場合、「天皇制」の歴史的経過も踏まえ、「象徴天皇」は妥協の産物であって「象徴天皇にすぎない」とする解釈すべきである。いやがる国民にあれこれの手段と方法をもって、強制することは避けなければならない。ところが、県教委の幹部職員らは自己の立場の安全性(立身出世)のために詭弁たることを承知のうえで「象徴天皇」が「憲法」にあるのだから「君が代」を歌うべきだとのセリフを吐いているのである。
「菅川文書」の頃はそれに歩調を合わせ、右翼が台頭してきて今日の辰野教育長のような強圧路線となると、それに迎合するのでは、教育の現場で日々の実践をし、児童、生徒とかかわるものは教育における一貫性を放棄しなければならなくなってしまう。
石川校長が自殺の道を選ばざるをえなくなったのは、そういうことに他ならない。
県教委が「憲法」と「法令」に基づいてというもうひとつの「法令」についてその詭弁性を分析してみよう。
「学習指導要領」のことを称して「法令的根拠」だと強弁しているのだが、人も知るとおり「学習指導要領」そのものが「法令」でないことは明らかである。衆参両院で可決されたものではないからだ。ただ「法令」的手続きによって、告示され、文部省はこう言っているといった程度のものであると関係者と世間に知らせているにすぎない。だから各級の裁判所の判断も、「イデオロギ−的強制」でないかぎり「大綱的基準」として認められるとしているのである。
しかし、今回の「君が代」強制は「イデオロギ−」的であり、「党派」的である。強制をともなう「職務命令」になじまないことは言うまでもない。
国会において、厳に法律のなかにある「…をするものとする」の言葉の解釈に対する議員と政府とのやりとりがあった。法文の「…をするものとする」の場合でも、事実上やっていない場合に、なんの回復措置も行政処分も行われていないという事実が明らかにされている。いわんや、「学習指導要領」における同じ文言においておやということである。にもかかわらず辰野教育長は「職務命令」でこれに対処し、「君が代」未実施の校長への「処分」と世羅高校教頭をふくむ9人の同校教職員や「君が代」未実施の校長へ「報復人事」をもってのぞんだ。それのみか、市町村教育委員会の独立的性格を無視して指導という名の下に「右へならえ」と処分を強制してきた。県教委のいう「法令」的ということの矛盾とボタンのかけちがいからその後のファッショ的権力行使は、かくのごとくであったというわけである。これら一連の経過も「君が代」の解釈をめぐる欺瞞性にさらに輪をかけるものとなった。
そこで、人権教育が人間の自主性と主体性を培う教育であることを考えたとき、教育というものの基本にたち返って考えてみなければならないものがある。
それは、天皇主権の時代においてさえ法律によって国歌だとされたことがないものを国歌だと強弁するために「統括の大権」が天皇にありとした公式解釈以外に、その後は、これに何の変更教材を明言したことのない文部省と県教委が「象徴天皇」の枠内の解釈でと条件をつけて、児童、生徒に自己陶酔させようとしているのである。
かつて、侵略戦争を「天皇陛下の御ために」と陶酔させて、あたら若き尊い生命を戦場に失わせていった時の手法であることに気付かなければならない。
自己陶酔は、部落解放運動がきびしく指摘している「自己疎外」の問題にほかならない。われわれに「主体」を捨てよといわれてもそれには絶対に応じられない。なぜならこれまで長い歴史の中で部落差別を受けて、有効に闘うことができなかったのは、その「主体」が侵されていたからである。
広島県の同和教育は「差別を解決することのできる主体と仲間づくり」ということを言ってきた。
ここに至ってにわかに、右翼思想をバックに「君が代」強制を押しつけてくることは、単に「君が代」強制という現象上の問題とか、事件として看過できない。それは、人間のもつ最も崇高な「自主性」「主体性」に崩壊をもたらすものであるからだ。
石川校長がどうしても屈することが出来ず死の道を選んだのは、この点の「良心」に固執されたのである。
「象徴天皇」という歴史の一時期の通過現象の賛美のために「人類普遍の原理」を抹殺されてはならない。われわれがこだわっているのは、人類史的問題である「人間のありよう」そのものを問題にしているのである。
県教委の欺瞞性は、これに違背した事をやろうとすることから出てくる詭弁の論理展開にあるといわなければならない。
5.あとがき
最後に、石川校長自殺事件についての背景もしくは遠因についてふれておこう。
第1番目は、反動的な文教行政をめざす政治勢力によって、突き上げられた文部省が、これらの勢力の直接介入を緩和しようとのポーズをとって、いわゆる文部省「是正指導」なるものを出してきたことである。しかし、例えば45分授業を50分授業にするとかの「揚げ足」とりの指導が、最近打ち出している「学習指導要領」の前倒しの中にある「ゆとり」の教育との間の文部省内における「揺れ」の問題であることをうかがわせている。広島県における「君が代」強制のために学校現場攻撃の材料に使われたことをその策謀として指摘されなければならない。
第2番目は、義務教育改革審議会なるものを発足させ、外部からの広島県教育をあたかも「惨状」そのものであるかのような宣伝を背景とし、県立学校には「職務命令」、市町村教育委員会にもさまざまな干渉をするための雰囲気を醸成してきたことである。
さらに第3番目の問題としては、小、中の児童、生徒4、000人程を抽出し、他に比較すべき基準のないまま、「学力の低下」を証明しようと「学力テスト」を行なった。現場教師の採点を許さないし、そのテストされた問題のコピーも許さないという独善的なものであって、教育現場の権力の強靭性を演出するものであった。結果は彼らが想定していた水準より高い学科があり、低いとされたものは、無理な出題を行なっていたからだということも判明している。また、人権教育、平和教育への反感をPTAなどの醸成させようとし、各地で懇談会を開いている。勿論、この懇談会などでは、先の義務教育改革審議会と同様に、被差別部落民への差別感情と嫌悪感を露骨にあらわし、部落解放同盟を排除していることは言うまでもない。
「学力テスト」による「低学力」宣伝は失敗したが、それと同様に小、中の教育への父母の不信感をあおるために、アンケート調査を行なった。調査方法が明確でないばかりか、ここでも人権教育と平和教育にとりくんでいるものを調査の対象から排除している。しかし、アンケート結果は「人権教育」とそれに類似する「相手の立場のかる青少年の育成」を求めるものが圧倒的に多かった。県教委が引き出した「父母の教育への不信」は人権教育が不充分であるという表明であった。ついに教育の「惨状」証明にこれは使えなかった。だが、現場の校長や教師たちには、強く「圧力」を感じさせるものだった。
さきの懇談会、アンケートなどにもある「20人学級、30人学級などの欧米並み学級定員」への願望に著しく反して、県行政による措置は全くといってよい程なされていない。
県教委が、それへの「羞恥」をごまかすために「君が代」を利用していることも浮かび上がってきた。ちなみに23の市町村を抽出して、県が市町村に地方財政法の精神に違背して、負担させている予算額は数百億円にもなるのである。
広島県における学校の施設設備率は、全国的順位において「中」もしくは「下」にランクされている。それへの責任の所在も一連のしめつけによってかき消されてきた県議会の「教育勅語」派がその役割をかっていることも否めない。
石川校長の自殺はこのような背景のもと、同僚校長らがこうもあっさりと「君が代」強制に屈服してしまったことからくる孤立感も手伝っている。先にも述べているが「手も足もロックされている」と校長会福山地区支部長が言ったように、教育の自主性は圧殺される状況が背景にあった。とにかく、辰野教育長は、彼自身が文部省からの出身官僚であること、県議会の「教育勅語」を奉載する超右翼、それに抗う県議会内勢力の弱さなどの現状があって、ひたすら「命令」「圧力」の方向に動いた。これら一連の行政的手法が背景にあった。
部落解放同盟は、県内の労働関係、市民団体、そして広範な市民の皆さんに、ここにかかげる背景的なものそれ自体が広島県の教育を崩壊させる原因でもあることを理解してもらうために、今後も努力し、その道もまた人権教育の前進による部落解放運動へのとりくみであることを確認して報告書の結語としたい。