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世羅高校校長・石川敏宏先生の突然の悲報をお聞きし、私たちは大きな衝撃を受けると同時に、先生の生命を奪った者たちに対して湧き上がる憤りを禁じえません。
先生はどんな場合にも生徒のことを第一義に考え、真心と情熱を持って教育に取り組んでこられた方であり、先生や教職員はもちろん、保護者や地域の人々も大きな信頼を寄せていたと、先生との出会いがあった人たちからお伺いしています。
だからこそ、県教育委員会が卒業式・入学式における『日の丸・君が代』実施に強い姿勢を打ち出して以来、自らの教育理念と相反することを一方的に強制されることに大変苦慮され、早くから「君が代だけは絶対やらない」という思いを話しておられたそうです。お亡くなりになる前日、教頭先生らに「処分されるのは覚悟で君が代は実施しないことに決めました」と話された言葉の中に、先生の教育者としての良心が凝縮されています。
いうまでもなく、『日の丸』が国旗であり、『君が代』が国歌であるという法律上の規定はどこにもありません。文部省や県教育委員会が主張するように、公教育は学習指導要領に基づいて進められるものだとしても、法治国家であるわが国において、単なる告示に過ぎない指導要領によって法律上の規定がない事柄まで強制できないことは自明の理です。さもなければ、議会における審議と法の制定という手続なしで、権力の恣意によってほしいままの政治が行なわれることになり、まさに民主主義の死と言わざるを得ません。
文部省や県教育委員会は「明文上の規定はないが、慣習として国民の間に定着している」と強弁しますが、法としての慣習とは「権利を規定する規範が民衆の慣行によって確立された場合における規範」であり、「権威者の命令でもなく訴訟の審理に際に初めて成立した規範でもない」というのが法律学の上の基本認識です。つまり、権力者たる文部大臣が「日の丸が国旗、君が代が国歌というのは慣習」などと一方的に告示できるものではないのです。
さらに『君が代』が天皇制の永続的な繁栄を願う歌であることは誰も否定できません。文部省や県教育委員会は「象徴性に変わった戦後は君が代の意味も変わった」と苦し紛れの理屈をつけていますが、あくまでも『君』は天皇であることは認めています。だとしたら、省庁に過ぎない天皇に対して特別な感情を醸成する『君が代』が象徴天皇制にふさわしくない歌であることは明白であり、憲法擁護の立場からしても相容れないものです。
また、皇室典範では「男系の男子」のみに皇位継承権があると明記していますが、まさに封建的な家父長制度そのものであり、男女平等を謳った日本国憲法と女性差別撤廃条約違反の規定であることは明白です。このような封建身分として存在する天皇を特別な血筋の人間として崇め、敬愛を強いることによって「単なる象徴以上の存在」に仕立て上げようとする策動は、被差別部落に生まれたというだけで数百年長きにわたって差別され続けてきた私たちにとって、いかなる理由をつけようとも絶対に認めることはできません。
このような歴史的意味と背景をもつ『日の丸・君が代』を、多様な価値観やアイデンティティをもつ子供が在籍する教育の場へ、権力を使って一方的に強制することは、もはた教育に値しない暴挙です。辰野教育長は「学習指導要領の規定が問題だと言うなら裁判で決着をつけるべきだ」と開き直り、県立学校校長会は「日の丸。君が代は国旗・国歌ではないという政治的な主張を学校教育の中に持ち込んでもらいたくない」と、私たちの行動を批判していますが、法律で規定していないものを国旗・国歌であると強弁し、賛否両論がある問題を教育の場に強制しているのは彼らであり、筋の通らない詭弁に過ぎません。
社会正義を実現する人間を育てることを教育実践の柱としてこられた校長先生方に大きな苦悩を背負わせたのは県教育委員会であり、石川先生が亡くなられた直後にも「国旗掲揚・国歌斉唱を行なうことが先生の遺志につながる」と平然と言い放った辰野教育長には人間性のかけらもありません。わたしたちは、教育の主人公である子どもはもちろん、保護者や教職員をはじめとする多くの人々の願いを踏みにじった県教育委員会の暴挙に対して強く抗議するとともに、平和と人権を基調とした広島の教育を一層前進させるため今後もたゆみなく歩み続けることを、石川敏宏校長先生のご霊前にお誓いするものです。
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