主張
部落解放運動のために(2)



 広島県連の仲間からも、他府県連の仲間の活動家からも、いまの解放運動の閉塞状況を乗り越える道はないかと、問われる。

「部落解放運動のために」という主張を連続掲載していくために、今回も最初の4行は、同じ文章ではじめた。

 敵の攻撃(小泉構造改革・安倍反動思想)に出遭って、部落解放運動のみならず、労働運動も、旧社会党の運動も、案外もろかった。

 部落解放運動の場合、そのもろさは飛鳥会の事件を典型例としてあげることができる。事件の内容よりも、われわれは、この事件に対処し、自浄作用をやりとげなければならない正味の運動側のありように注目し、自らの反省の材料としなければならない。

 いかなる時代、いかなる文化的様相をもつ状況下にあろうと、この世の中の動きについては、その社会を構成する「人間のありよう」によって、左右されるということを忘れてはならない。

 解放理論「三つの命題」の三番目に「社会意識としての差別観念」というものがある。人間の意識というものが、その時代の客観的、社会的存在とどうかかわるかを分析した命題である。

 宗教とりわけ仏教は「縁」ということを重視する。「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」と親鸞は言っている。

 人間は生活を取り巻く客観的状況によって、ときには日頃の主張と正反対の方向に動くこともある。人間とは、そのようなものであるということを知っておかねばならない。

 ヒトと呼ばれるわれわれ(ホモ・サピエンス)は、大きな頭脳をもち、相当きめ細かい知恵の働きによる判断力というものを持っている。

 その頭脳力のゆえに、極端なエゴイズムに走る場合がある。

 部落差別そのものは、このような人間存在の事実をわきまえて、分析しなければ、その真実に到達できるものではない。「差別は単なる観念の亡霊ではない」(「同対審」答申)と言われるように、「客観的、社会的事情」を考慮に入れて分析しなければならない。

 だが、それと同時に、そのようなもろもろの事情の中にある人間なるものが、ことと次第によったら、どのようなエゴイズムに走り出すかも知れないということである。

 差別撤廃を政府と社会に対して要求している部落解放運動が、そして、その運動を構成している一人ひとりのメンバーが、ことと次第によっては、手に負えない程のエゴイズム(社会通念的な言葉で言えば反社会性)に走る場合があるということである。

 部落解放運動は、この人間なるものの深層を正しく認識してかからねばならない。共産党の差別キャンペーンは、この人間なるものを認識することができなかったために、彼らの主張の浅薄さが世間に目立つところとなった。敵失によって、われわれが救われた部分もある。

 支配権力が巧妙な差別政策、分裂政策によって、搾取と収奪の効率を上げてきた。彼らは人間をどう操るべきかを知っていたということになる。

 部落解放運動は、敵に弱味を利用されてきた自分自身と仲間のありようを人間学的に分析しなければならない。

 全国的にも広島県連も、その水準でものごとを考え、新たな局面に立ち向かわねばならない。


  『解放新聞広島県版』 2007年6月6日 第1873号