主張 落解放運動のために(5)


 今回も同じ文章からはじめる。

 「広島県連の仲間からも、他府県連の活動家からも、いまの解放運動の閉塞状況を乗り越える道はないか、と問われる」

 どのような場面で、このような会話が交わされる場合でも、はっきり言えることは、「実践のための理論」が、それなりに確立されていなければならないということである。

 しかも、高度な精神的作用をもつ人間だということを考えれば、しっかりした確信に、その理論が裏づけられていなければならない。

 ところで今回は、解放教育のことについて、言及してみよう。

 われわれの有力なパートナーともいうべき全国同和教育研究協議会は、これまで素晴らしいことを言ってきた。

 「すべての子どもの可能性の全面開花」というのがそれである。

 これを苦々しく思った権力は、差別と選別の体制をつぎつぎに押し付けてきた。たとえば能力別クラスによって低学力の子どもを切り捨て、ほんのひと握りの子どもたちを支配階級の道具として育てる方向に布石を打ってきた。

 人間として生まれた子どものもつ遺伝子は、そんなに低学力の子と高学力の子どもとかわるものではない。

 たまたま、この世に生まれ落ちて、学齢までの生育の条件が多少違っていたというに過ぎない。

 民主主義が「教育の機会均等」というなら、その生育の条件の違いを学校教育で取り返すことが必要であろう。

 これを否定する連中は、民主主義を押しつぶし、人権無視の輩だと言ってよかろう。

 市場原理によって「格差」を拡大し、人類の生存を危機に追い込んで、支配を恣にしている連中の教育観は、人間なるものをひねくれて見ているということである。

 すでに相当以前から、分子生物学者や大脳生理学者らの言っていることに、人間の遺伝子、それにともなう遺伝子情報などというものは、人間力を培うというか、人間力を発揮する観点からみると、僅かに3%か5%しか作動していないというのである。

 可能性が秘められたまま、人間はその生涯を終わることが多い。

 これまで全同教が言っていた「子どもたちの可能性の全面開花」という言い方は、そこに原理的正しさがあったわけである。

 支配階級の宣伝力は「社会意識」を形成する。世の中の多くの親たちは、自分の子どもは「よくできる子」と思っているグループと、「よくできない子」とあきらめている親たちとにわかれている。

 しかし、学力が低いという現時点での状態は、学校教育と生活水準の向上で、その子のもっている能力は、いくらでも引き出せるというのが、今日の教育学的、学問的理解である。

 残念ながら、今日では弾圧がきびしく、全同教も、文科省の役人を全国の研究大会などに関与させて妥協しているきらいがある。

 だが、部落解放運動(同盟のこと)が、しっかりと理論の再確認をおこなって、組織の整備をはかれば、文科省などにだまされる水準から脱皮できる。

 人間の潜在力を生涯押し込めて、差別を甘受させようとすることを許してはならない。部落解放運動の責任は大き

  『解放新聞広島県版』 2007年7月4日 第1877号