主張 部落解放運動のために(6)
今回も同じ文章からはじめる。
「広島県連の仲間からも、他府県連の活動家からも、いまの解放運動の閉塞状況を乗り越える道はないか、と問われる」
運動の方向が再び活性化をするという希望をいだくことができないままに、スキャンダルのような報道がマスコミによって流されるということになれば、方針と運動(実践)の乖離だとばかりはいっておれない。
方針はよいが、地方の運動がそのとおりにいっていないのだという弁解は成り立たない。
いまの運動を多角的に分析し、整合性のある理論と、それに調和した運動の事実を中央本部は、都府県連に演じて見せなければならない。
全国都府県連の一部では、かつての活発な時代の運動形態を守り通しているところもある。
せめて、それを称揚して全国に紹介し、全国の組織に対して、勇気と自信を喚起しなければならない。
広島県連は、天皇制イデオロギーと、かつての侵略主義的風潮をかもし出す「日の丸」「君が代」には、頑ななまでに抵抗し続けている。
それは単にイデオロギー的に固執して、社会意識としての差別観念の増幅を懸念してのことにとどまらない。
部落解放運動がこれまで明らかにしてきた「人間のありよう」を、運動の路線に従って考えてきたからこそ、その方向性を固く守っているのである。
「人間のありよう」とは、いま「美しい国」などと詭弁を使って、人間疎外、自己疎外による人間性の破壊が進行している事実をごまかしている自民、公明の両党による政権の欺瞞性を、しっかり追及していく姿勢(運動)でなければならない。
「教育で勝負をつければよい」という、鹿鳴館時代からの日本政府の欺瞞性を象徴したような言葉がある。
安倍首相は、次の参議院選挙を、この教育問題を主軸にしたいと思っていた。
そして、教育関係の反動法案をつぎつぎに国会で通過させてしまった。
これから教育は、反動派のイデオロギー普及の場に転じる。教育現場は、差別と選別の修羅場となってしまう。
部落解放運動は自民党と心やすくすることによって、一部幹部の人脈の幅の広さを演出できるかもしれないが、部落解放運動は行き詰まり、次代の国民の人間力を養うということはますます難しくなっていく。
部落解放運動は身分差別を解決していく運動である。だが、この身分解放闘争は、日本という国の一般的な社会的不合理を片付けながら前進するという性格をもっている。
ちょうど、同和対策の環境改善事業で、部落の中の道路を整備し改良しても、その周辺の道路も改善しなければ、意味を成さないということと同じである。
いま差別と選別の教育を推進しようとしている連中は、よくできる子どもたちのためにはいくらでもお金を出すなど、行政施策における予算配分のところにおいてさえ公然と差別している。
だが、よくできる子どもというのはたまたま好条件に恵まれて学力が高くなっているに過ぎない。
子どもたちのDNAは、みんな人間としての能力を発揮する力量をもっているということを忘れてはならない。
『解放新聞広島県版』 2007年7月11日 第1878号