主張 「大連立」に関連して


 福田、小沢の両党首会談は、茶番劇のような格好で、一応の幕となった。

 どちらも、党利党略で、相手を「一杯喰わそう」という気持ちがあった。

 福田は「大連立」でアメリカ奉仕の政権を安定させようとねらった。

 小沢は、国連決議と日本国憲法との関係で、自己の主張の整合性(恒久法のこと)を約束させることであった。

 どちらも、大きく目を見開いて考えるとき、アメリカの世界戦略体制の一環を担うことに他ならない。

 アメリカは武力による威嚇と、その行使によって、世界を思うままに動かそうとしている。

 いま世界中が、「一喜一憂」の矛盾極まりない資本主義の時代に入っている。

 「資源」「環境」のこと、そして、「マネーゲーム」など、不安材料は人類の生存を脅かしている。

 こんなときに、平和憲法をもつ、日本という国が、アメリカンスタンダードの矛盾の後追いをするのか。それとも憲法にいうところの「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」姿勢でアメリカやイギリスをたしなめつつ、しかも、自らをきびしく律していくのかということが問われているのである。

 これからも「大連立」はくすぶるのであろうと、マスコミを操る論者は、しきりに世論をあおっている。

 しかし、一方では、戦前、戦中の大政翼賛会のような政情になると警告しつづけるものもいる。

 こんなときこそ、人間性の根本のところを考える部落解放運動が、自らを「被差別から解放」する理論(方途)の立場から、人間観、社会観をしっかりと確認しながら、歩みつづけ、運動を前進させなければならないのだ。

 だが、現実はそのようなことになってない。

 大阪、京都、奈良などの不祥事も、危惧される材料である。しかし、このようなことは、部落解放運動そのものと分かち難く結びついた矛盾、理不尽というより、むしろ、今日社会の不合理な構造的欠陥というべきものである。

 運動の不祥事を免責するために言っているのではない。社会のすみずみに至るまでいろいろな衣をかぶって、不祥事はおきている。守屋次官と、防衛省と取り引きのある山田洋行という会社のありようなど、政権関連のところにおきている問題を考えれば、一目瞭然である。

 大阪の飛鳥会の事件などは、国家犯罪と言うべき防衛省のやっていることを見れば、社会矛盾の「ほんの門さき」程度のものである。

 だが、社会意識としての差別観念の存在は、マスコミなどを通じて、部落解放運動の責任にし、世の中の全存在をかけた重要事件のように宣伝した。

 ここで考えなければならないことは、このような陰謀じみた宣伝と、当該地方自治体の「悪乗り」に対して、正しく方向付けをする闘いができなかったということである。

 部落解放運動の正当性が主張しきれなかったことは、「部落解放基本法」制定運動の終末期に「21世紀は人権の世紀」だと「一喜一憂」段階に入っているアメリカンスタンダードを美化する方法によって、方向を狂わせてしまったからである。

 緊急に理論的な立て直しと取り組み、「悪い社会」は「悪い」として批判し、真の解放を求める理論を再生しなければならないのである。