主張 広島の部落解放運動と宗教


 

 広島の部落解放運動の特徴の一つに宗教界(特に浄土真宗本願寺派と曹洞宗)との切磋琢磨がある。

親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派とは差別過去帳問題(1985年)をめぐって安芸教区、備後教区に対する確認・糾弾会を開催。一定の解決をみた後、被差別民衆の解放に今日の宗教者(界)が力となりうるか、について議論しようということから、両教区と県連からなる「同朋三者懇話会」の発足(1988年12月)となった。          

爾来、三者懇は、「業・宿業」「信心の社会性」「真俗二諦」「往生と本願」などをめぐって議論を交わし、現在は「煩悩」をテーマにしている。

 人間の差別心も煩悩の一つである。浄土教では煩悩は断つことができないものとしている。それでは、差別を世の中から無くすことはできないということになってしまうが、「正信偈」には「不断煩悩得涅槃」とある。つまり、煩悩を断ぜずして涅槃(さとり)を得ることができるというのである。

そういえば、私たちの運動に連帯する人の中には、自らの差別心を内省しながら私たちの側にいつも寄り添い、共に歩んでいる仲間がいる。煩悩を断ち切っているわけではないが、煩悩が部分的にはないに等しい存在といえよう。

煩悩をめぐる現在の議論は、「煩悩成就」とはいかなる状態であるのかを掘り下げる段階となっている。

部落解放運動に身をおく者として、仏教の「諦観」の教えにも魅かれる。諦観には「あきらめる」という意味がある。「あきらめる」といえば消極的、投げやり的な生き方という受け止め方が一般的である。真理を見極める=「あきらかに眺める」という本来の意味が「あきらめる」になったようである。  

私たちには、如何ともし難いことがある。部落、女性、あるいは障がいを持って生まれたことは、いかに悩み苦しんでも、その事実を変えることはできない。しかし、差別を当然とする社会を変えることは可能である。そうなれば、どうすることもできないことにいつまでも執着するのではなく、変えることが可能なことにエネルギーのすべてを注ぐという、きわめて積極的な生き方を説いた教えと解することができる。

文科省の是正指導以降の激しい攻撃の中で、何ができなくなり、何ができるのか、ぎりぎりのところを見極め、できることに全力を挙げる生き方とも重なる。

曹洞宗とは、大本山總持寺に掲示していた「上見れば ほしいほしいの 星だらけ 下みて暮らせ 星の気もなし」という差別肯定の伝道標語に端を発して、「少欲」「知足」の仏教思想とその実践に論議は及んでいる。曹洞宗との協議は、12月1日におこなわれる。すでに曹洞宗側から「欲望や煩悩に翻弄される生活を、逆に調えられた生き方に戻すことが『少欲』『知足』の徳目の基本」という「報告書」が提出されている。人類存亡の課題である地球温暖化などの問題を考える時、「少欲」「知足」の教えは、今まさに輝きを増しているといえよう。

今年は、親鸞が時の朝廷によって越後に流罪にされてから800年目にあたる。親鸞は朝廷に対する怒りをあらわにした言葉を残している。曹洞宗の開祖・道元は、師と仰いだ天童如浄の言葉「国王大臣に親近するな」という教えを生涯守りぬいたといわれている。部落解放運動の本来的ありかたを考えさせられる教えと実践である。(E・O)