主張 小泉構造改革がもたらしたもの
小泉「構造改革」は、日本におけるすべての経済活動に「構造改革」だとか「自由化」だといって、時流の「浮ついた気分」に乗り、無茶苦茶に、世の中のシステムを壊したというものである。
それは必然的に、人びとの労働条件を低下させ、人間関係の相互における感情は、「ねたみあい」「足ひっぱり」など、ますます「いびつ」なものとなってくる。
部落解放運動は、今日社会の重要な問題として、そこを正しく認識しなければならない。ある解放運動の活動家は、この事態を正しく認識していると言う。しかし、その人は考えねばならない。そこに至るプロセスにおいて賛成していたのではないか。そうではない場合でも、ついぼんやりとして、そのような悪事を働く小泉「構造改革」を黙認していたのではないか。
いや、そんなことはないと、再び自己の責任を否定するものがいるかもしれない。しかし、小泉「構造改革」については、自民党は勿論、総保守化体制の中で進められたもので、根本を追っていけば、社会党の崩壊をもたらす小選挙区比例代表並立制に賛成したときからのことではないか。
総保守化=大政翼賛体制になることを是認してきたことに端を発していたのではないか。
広島県の郵便局で起きた出来事だが、県連関係の郵便物が7、8通配達されないままに、放置されていたという事件が起きた。他に個人が投函したものも1通、そのような状態であったという事件である。
明治以後、日本の郵便局は厳密な監察制度のもとに、配達事業を中心にその機能を全うしていた。
ところが、ここに至って、前記のような事件が起きた。
県連は、この事実を重視し、郵便局の広島県における「もとじめ」である中国支社に反省と改善を求めた。
しかし、本質的に解決していなければ「一度あることは、二度、三度」という言葉があるように、今度は、ある葬儀にむけて弔意を示すためのレタックスが配達されていなかったという事件が起きた。
レタックスをもって弔意を示す人と葬儀を執行する当家との信頼関係にひびが入る可能性もある。つまり、礼儀を失するということから人間関係が壊れてしまうといかことである。
また、葬儀に参列しておられる方々も首をかしげる事態となる。なぜなら、参列者の中で、地域社会における人間関係を知っている人は、何故弔意文が届いていないのだろうかと不信感を抱くものもいるからであろう。
当該郵便局は関係者のところへ謝罪に歩いた。郵便局の支店長(局長)は恐縮していた。責任者だから当然のことであろう。
しかし、考えなければならないことは、どうして、このようにタガがゆるむのかということである。
結局は、郵便事業に携わるものの労働条件が、このような不祥事を生み出す根本原因ではないかということである。
働く人の「心の安定」「ゆとり」というものがなければ、「一度あることは、二度、三度」ということになる。
「21世紀は人権の世紀」と呑気なことを言ってはおれない。人権侵害の差別行政の存在するかぎり、われわれは闘い続けなければならない。